2.20.2008

ドラゴンクエストⅡ メドリー



ドラゴンクエストⅡ メドリー

ドラゴンクエストⅠ メドリー



ドラゴンクエストⅠ メドリー

ドラゴンクエストⅧ メドリー パート②



ドラゴンクエストⅧ メドリー パート②

ドラゴンクエストⅧ メドリー パート①



ドラゴンクエストⅧ メドリー パート①

2.19.2008

ドラゴンクエスト5 愛の旋律



ドラゴンクエスト5 愛の旋律

ドラゴンクエスト5 空飛ぶ絨毯



ドラゴンクエスト5 空飛ぶ絨毯

ドラゴンクエスト5 大海原へ



ドラゴンクエスト5 大海原へ

ドラゴンクエスト5 カジノ都市



ドラゴンクエスト5 カジノ都市

ドラゴンクエスト5 街角のメロディ



ドラゴンクエスト5 街角のメロディ

ドラゴンクエスト5 暗黒の世界



ドラゴンクエスト5 暗黒の世界

ドラゴンクエスト5 死の塔



ドラゴンクエスト5 死の塔

ドラゴンクエスト5 洞窟に魔物の影が



ドラゴンクエスト5 洞窟に魔物の影が

ドラゴンクエスト5 不死身の敵に挑む



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2.18.2008

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ドラゴンクエストⅢ アリアハン城下町



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ドラゴンクエストⅢ ダンジョン




ドラゴンクエストⅢ ダンジョン

ドラゴンクエストⅢ ゾーマ戦



ドラゴンクエストⅢ ゾーマ戦

ドラゴンクエストⅢ 塔



ドラゴンクエストⅢ 塔-Tower

ドラゴンクエストⅢ 王宮のロンド



ドラゴンクエストⅢ 王宮のロンド-Rondo-

ドラゴンクエストⅢ おおぞらをとぶ



ドラゴンクエストⅢ おおぞらをとぶ

ドラゴンクエストⅢ 冒険の旅



ドラゴンクエストⅢ 冒険の旅 Dragon Quest Ⅲ ~field theme~

ドラゴンクエストⅢ 最後の戦い~そして伝説へ



ドラクエⅢピアノ 最後の戦い~そして伝説へ

ドラゴンクエストⅣ メドリー パート②



ドラゴンクエストⅣ メドリー パート②

ドラゴンクエストⅣ メドリー パート①



ドラゴンクエストⅣ メドリー パート①

ドラゴンクエストⅣ 街



ドラゴンクエストⅣ ~街~

ドラゴンクエストⅣ 第五章 勇者の故郷~馬車のテーマ 




ドラゴンクエストⅣ 第五章 勇者の故郷~馬車のテーマ 

ドラゴンクエストⅣ 第三章 武器屋トルネコ



ドラゴンクエストⅣ 第三章 武器屋トルネコ

ドラゴンクエストⅣ 第二章 おてんば姫の冒険 アリーナ



ドラゴンクエストⅣ 第二章 おてんば姫の冒険 アリーナ

ドラゴンクエストⅣ 第四章 モンバーバラの姉妹



ドラゴンクエストⅣ 第四章 モンバーバラの姉妹

2.10.2008

ドラゴンクエスト誕生までの経緯

エニックスの千田幸信プロデューサは、1985年に『ドアドア』でファミコン参入後、パソコンで発売されていた堀井雄二のアドベンチャーゲーム作品『ポートピア連続殺人事件』をファミコンへ移植することを決め、堀井と、チュンソフトのプログラマ中村光一に同作の製作を依頼する。同作の開発中、堀井と中村の2人は、当時パソコンで流行していたRPGという分野に関心が向き始めていた。そしてファミコン版『ポートピア』発売後、堀井は千田にRPG製作を提案した。当時、ファミコンのゲームといえばアクションゲーム、シューティングゲームが主流であり、当時RPGはゲームマニアのジャンルという扱いであったため、未知のジャンルに反対の声もあったが、RPGに魅せられた堀井の意志は硬く最終的に千田はゴーサインを出し、ファミコン初のコンピュータRPGの開発が始まった。

堀井は、印象的なタイトルを作るには馴染みのない単語同士の組み合わせと、印象が残りやすい「ダ行」で始まるタイトルが良いという考えから、ファンタジーSFなどで知られた想像上の生物である「ドラゴン」と、あまり馴染みの無い「試練」などを意味する「クエスト」という2つの単語を合わせて「ドラゴンクエスト」というタイトルを作った[3]。後に本シリーズのヒットで「クエスト」という単語は一般に知られるようになり、後続のゲームに「クエスト」を使うものが多くなった。

キャラクターデザインは、当時、週刊少年ジャンプの編集者であった鳥嶋和彦に堀井が相談を持ちかけたところ、鳥嶋は、自分の担当していた『DRAGON BALL』の作家である鳥山明について「『ポートピア連続殺人事件』に興味を持っており、ゲームの仕事をやりたがっている 」と発言。鳥嶋は、堀井の描いたラフスケッチを鳥山に見せ、鳥山にモンスターのイラストを描かせた。こうして、漫画家として知名度の高かった鳥山明が、本シリーズのモンスターやキャラクターのデザインを担当することになった[4]。

ゲームBGMは当初、すぎやまこういちとは別のスタッフによってひと通り作曲されたものの、内部の評価が高くなかった。一方、作曲家のすぎやまはコンピュータゲーム好きでもあり、当時パソコンやファミコンのゲームに熱中していて、エニックスのパソコンソフト『森田将棋』(1985年発売)の製品アンケートはがきをエニックス宛に送付していた。この縁から、急遽、千田幸信はすぎやまにドラゴンクエストのゲームBGM作曲を依頼し、すぎやまはそれを引き受けることとなった[5]。第1作のBGMはマスターアップ直前のわずか1週間という非常に短い期間で作曲されたが、この楽曲に対する評価は高く、後にオーケストラでも演奏され、CDも発売されることとなる。

堀井雄二、すぎやまこういち、鳥山明という三大スタッフの参加によって『ドラゴンクエスト』は完成し、1986年4月の発売に至った。最終的に150万本を売り上げたヒット作品となり、以降、ドラゴンクエストはシリーズ化され、この三大スタッフによって続編が次々と開発されていく。


開発会社の変遷
第1作はチュンソフト製作・堀井雄二監督・エニックス販売で幕を切った。しかし、ドラクエが社会現象になる中、チュンソフト[6]社長である中村光一はドラクエ以外のオリジナル作品へ関心が移り、徐々にディレクター職から退くことになる。『V』を最後にチュンソフトはシリーズの製作から手を引き、同社はサウンドノベルやローグライクゲームのオリジナル作品やスピンオフ作品(『トルネコの大冒険』シリーズ)でブレイクすることになる。

以降、チュンソフト社員の中からドラクエ製作を希望する有志を募り、『V』でディレクターを務めた山名学がハートビートを設立。『VI』から『VII』、そしてプレイステーション版『IV』まで関わり続けた。しかし、開発ペースの長期化で徐々に経営が困難になり、ハートビートは2002年に営業停止・解散する。[7]

新たな製作会社は複数のメーカーを集めたコンペが行われ、レベルファイブに白羽の矢が立ち、同社が『VIII』そして『IX』の開発を担当している。

Wikipedia参照参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドラゴンクエストシリーズ